7月20日、同志社大学志高館で講演会:戦時下の性暴力を問う「なぜ日本軍は性奴隷が必要だったのか」を開催しました。

講師は精神科医で評論家の野田正彰氏です。会場を埋め尽くした125名の参加者は、多くの人が涙を浮かべながら、話に聞き入っていました。日本人としてこれからも政府に謝罪を求めて運動していくことの大切さを再認識した方も多かったのではないでしょうか。

主催した、アムネスティ日本 関西連絡会の野尻が報告します。

東京高裁は軍人の陵辱、卑劣な行為を認定

野田氏は海南島の6人の女性たちが国に損害賠償を求めた「中国海南島における戦時性暴力被害」訴訟の控訴審に提出する精神鑑定書を作成されました。そのために海南島を複数回にわたり訪問し、原告女性への詳細な聞き取り調査をされました。今回はそのときのお話をベースに講演されました。

2009年3月、残念ながら東京高裁は被害女性たちが国に求めた謝罪と賠償は1972年の日中共同声明によって請求権が放棄されているとして、控訴棄却としました。さらに、2010年3月、最高裁も上告を棄却しました。しかしながら、東京高裁の判決は「本件被害女性らは、本件加害行為を受けた当時、14歳から19歳までの女性であったのであり、 このような本件被害女性らに対し軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は、極めて卑劣な行為であって、厳しい非難を受けるべきである。

このような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって、これがすでに癒されたとか、償われたとかいうことができないことは本件の経緯から明らかである。」(判決書28頁) と認定したのです。

さらに、野田氏が提出した精神鑑定書に基づき、東京高裁は5人の女性については「破格的体験後の持続的人格変化」に苦しんでいること、そしてもう一人の女性についても今なお精神的外傷後ストレス障害(PTSD)に罹患していることを認定したのです。

海南島で14~19歳の少女を騙して性奴隷に

講演会当日は真夏日でした。野田氏は「私にとって戦争は夏のイメージがある。海南島の樹々の緑の濃いところでお婆さん達にインタビューしたところが夏につながります。」と話を始められた。

従軍慰安婦という言葉は世論の喚起にはよいでしょう。しかしこの呼び方は事実を矮小化しています。侵略地では、彼女たちは現地調達の性奴隷でありました。あるいはそれ以下の扱いを受けてきたのです。日本軍兵士は強姦を繰り返し、逃げ出すと殴る蹴るの暴行を加え、そして体が動かなくなると殺す、といったことを行ってきたのです。

1939年、日本海軍が南下して海南島を攻めました。海岸部には軍管理の慰安所が設置されました。そこでは台湾、韓国から連れてこられた女性が働かせられました。一方、内陸部では自前の急ごしらえの慰安所が設置されたのです。

そこではリー族、ミャオ族の少女が働かされました。彼女たちは14~19歳で、村からさらわれたのです。軍の仕事の手伝いといって騙されてつれてこられ、小さな建物に閉じ込められ、性奴隷にされたのです。

建物の中に閉じ込められたある者は、脱走をして、家族と山奥に逃げました。そして山中をさまよいました。森の中には食べるものがない。衰弱していきました。大変な逃避行でした。このような少女たちは堅い文化の中で育った人たちでした。家に逃げ帰ると兵士は親に暴行を加えたのです。そして少女たちも銃で殴る、蹴るの暴行を受け、多くの人が骨折しました。

リー族では若い男女の結合は若くして結婚するという文化でした。そして村全体で祝っていました。そのようなリー族の若い女性たちが連行され、暴力を受けたのです。戦後彼女たちはほぼ全員が差別されて生きてきました。特に少数部族ではひどかったようです。そのような中、彼女たちは家族に支えられて戦後を生きてきました。

ある老女は、戦後貧しい生活を強いられてきた。そして普通の結婚ができないという環境で、ハンセン病の人と結婚、そのあと老人と結婚しました。村の中で「日本の女」言われながら生きてきたのです。会ったときは錯乱状態でした。

ある老女は子宮筋腫になっていました。その村には医療施設がありません。面会時60歳でしたが、まだ出血が続いていました。若いときにふしだらだったからーーと思い込んでいるのです。

面接した被害者全員がPTSD

外傷性ストレス障害において、「忘れた後にフラッシュバックで思い出す」というのは嘘です。被害者はずーっと忘れることがありません。ある老女は顔にあざのある男のことを覚えていました。夜にガタガタという音を聞くと日本人が襲ってくるのを思い出すと話していました。また結婚できずに一人で過ごす老女は牛と一緒に生活していました。

私が面接した全員がPTSDでした。そして破局的体験後の人格障害となり、おびえ続ける人が多くいました。ミャオ族のひとりの老人が私に会いに来ましたが、村がその老人を受け入れて、彼女は助産婦として生きてきたそうです。

彼女たちは「自分が被害者であった」ことを日本政府に認めてほしいと思っています。日本人が戦後に、心から謝罪し、彼女たちを支援していたら、彼女たちの人生は違ったかもしれません。日本人は基本的なことがわかっていません。そしてお金を払うという程度でことを済ませてきたのです。「被害者の彼女たちに私たちはどう向き合うのか?」を考える必要があります。

私たちが政府に謝らせる努力を続けることが信頼の証

日本の運動は個々の問題をしっかりと見ることが弱いと思います。「慰安婦」として括ってしまい、矮小化しています。被害者をほったらかしにしてきました。謝罪よりももっと大切なことがあります。自分は日本を代表して「ごめんなさい」という立場ではありません。私は「あなたが生き続けたことへの感謝の気持ちから、ありがとうと言いたい。」「あなたは大きな仕事を成し遂げてくれましたと、私の尊敬の気持を伝えたい。」そして政府に謝らせる努力を続ける。これが信頼の証であると思います。

私たち日本人は戦時中に大変な苦労をしたとよく言いますが、侵略された国の人々は私たち以上にもっと苦しい生活を強いられていたのです。このことを忘れてはいけません。私は自分の国がいやになります。

兵士たちは自らの尊厳をも否定されていた

自国の兵に「死ね!」という国はありません。他国に特攻隊のようなものはありません。私たちの軍隊では兵隊が「死ね!」と言われ続けました。兵士に一片の尊厳も認めていないのです。「天皇に反対する者を殺すのが大義だ」と教えられ続けました。すなわち、日本社会そして天皇制がそのような文化を創ってきました。奴隷以下の女性を殺していった兵士たちは自らの尊厳をも否定されていたのです。このような特殊な文化は戦後も続いていると思います。いじめている子、いじめられている子、両者の関係は軍隊の構図と同じです。人間が尊敬されないという文化が継承されているのです。

1990年頃から「慰安婦」の言葉が出始め、性奴隷のことを初めて聞いたかのように言うのはおかしいです。戦後、作家の田村泰次郎が小説の中で軍隊での事実を書いています。私たちはこの問題を社会で受け止める力がなかったのです。

市民運動も怠惰でした。戦争中に東南アジアで何が起こったかについて知らない。これらを語る教科書を作る努力をしてきたでしょうか。これは市民運動ができることです。しかし、してこなかった。事実を調べることに加え、その被害者がどう感じてきたかを聞くことが大切です。そして体系的に戦争を教えることが大切。ドイツでは収容所跡にバラックを建て、殺されたユダヤ人のことを追体験するようなことが行われています。私たちも戦時中のことを思い、上海から南京まで中国人と一緒に歩くといったことをすればよい。小さな学校を作って戦争について学ぶことを考えるとよいでしょう。

物事を抽象化することも大切ですが、私は具体的に物事を見ることが大切だと思います。また、マスコミを疑うことも大切です。おかしいと思い、対話する努力が必要です。私たちで話し合っていくことが大切です。

同志社大学志高館で開催された講演会には125名の方が参加しました同志社大学志高館で開催された講演会には125名の方が参加しました

開催日 2015年7月20日(月)
開催場所 同志社大学志高館
主催 京都市会に「慰安婦」意見書を求める会
アムネスティ日本 関西連絡会ほか

ヒューマンライツ・サポーターになりませんか?