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死刑廃止 - 著名人メッセージ:中山千夏さん

中山千夏さん(作家)

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■死刑廃止への出発点

子どものときから、死刑は野蛮なものだから、良識ある人たちがなくす方向で考えていると思い込んでいました。でも、だんだんおとなになっていくなかで、政治的関心が強い人々の集まる運動の場で話をしても、多くの人は死刑のことは全然考えていないし、むしろ死刑が悪いと考えている人が少ないということがわかりました。

参議院選挙に立候補することになったとき、パンフレットに死刑廃止ということを書いたところ、当選した時にある方から「初めて死刑廃止とうたった候補者が当選してうれしい」と言われました。そこで私は、「死刑廃止とはこんなにマイナーなんだ。もっといろんな人がこの取り組みに関わっていると思っていたけど、そうではないんだ」と認識を新たにしました。そこから、本格的に自分のテーマの一つとして取り組んでいこうと思ったのです。

死刑制度で、自分自身いちばん引っかかっていることを言うなら、結局「人は人を殺してはいけない」という単純なところに戻ってきます。

冤罪の人は言うまでもありませんが、どんなに極悪といわれ、私たちが驚くような犯罪を起こし、他の人の命を奪ったのであっても、その人を別の第三者が殺すということは、まったく不条理で、非理性的で野蛮だという思いが出発点です。

■理屈では通らない「感情」

ただ、そこを話しても、みんなにとっては「それはそうなんだけどねぇー」というところでもありますね。しかし、そういう反応は、死刑の事実や実態が知られていないからではないでしょうか。

死刑制度に賛成の人は、あたかも死刑にすることによって犯罪が減ったり、凶悪な犯罪がなくなったりと単純に思うわけです。死刑に賛成という人でも、絶対にこの制度が正しいと思っている人はほんの少しです。そんなにほめられた制度ではなく、できればやめてもいいけれど、こんなにひどい犯罪があるうちは仕方ないじゃないかという感じの人が多いのです。

それを乗り越えて死刑の実態を知って、死刑という刑罰があまり役に立たないとわかっても、最後に残るのが「気持ちがおさまらない」ということです。

いろいろと賛成の原因を取り除いていって、最後まで残る強固な死刑支持理由というのは、「あんな悪いやつがいては放っておけない」ということ。むしろ法律家や死刑のことを勉強した人のほうが、「犯罪抑止」ということを言います。ごく一般の人々が死刑を捨てられないのは、「感情」ですね。これは感情だから、いくら理屈を言ってもだめですね。

人は、死刑制度のことや、人の生死についてゆっくり考える機会は、そうあるものではないでしょう。自分のまわりの人が殺されたということを、すごく観念的に思ってしまうと、私たちがずっと持ってきた文化――これは西洋も含めてですけど――殺されたら殺し返せという反応が出てきてしまいます。そういう道筋がみんなの中にできているのです。

でも、殺されたからといって必ずしもそういう反応をするものでもないし、反応しなくてもいいのです。そのことは恥ずかしいことでもありません。

一方では、キリスト教で言う「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」とか、または「罪を憎んで人を憎まず」という反応もあるわけです。私たちは、そういうものを自然に持っているのに、どうしても「やられたらやり返せ」が正義だというような思い込みを強く持ってしまっています。そこを変えないと、「悪いことしたやつは気に入らないから殺しちゃえ。そうしないと気がおさまらない」という反応は直りません。

■死刑とは第三者が満足する制度

「もし自分が被害者の身内だったら、やはり犯人を死刑にしたいじゃないか」と簡単に言う前にもう一度、観念的でなく考えてほしいのです。加害者を死刑にして、被害者やその遺族は本当にすっきりしたと思うだろうか、と。

殺してしまってすっきりすると思うのは、実は私たちが第三者だからなのです。当事者だったら、いくら犯人を殺したって気持ちはおさまらないですよ。「殺したって殺し足りない」というのが本当の被害者感情です。

私が当事者だったら殺したいと思わないかもしれないし、なってみないからわからないけど、そう思うかもしれない。でも実際の被害者や遺族は、それでは気持ちはおさまらない。殺されてしまった大好きだった被害者の代わりに、自分が殺人犯を実際に殺したとしてもおさまらないと思う。そこまで考えないとだめだと思います。

「自分で仇討ちはできないけれど、国がやってくれるからいいではないか」という意見もありますが、それが第三者の考えなのです。それでは第三者の気が済むだけです。

裁判官も「被害者感情を思えば」と言います。でも、死刑支持の人でもだれも血を見たいとは言いませんよね。被害者の気持ちを考えれば死刑にするしかないという人は、自分の胸に手を当てて本当にじっくり考えてほしいと思います。あなたは本当に被害者のことを考えていますか? きつい言い方かもしれないけど、本当はあなた自身の気が済むだけじゃありませんか?

実際に死刑が執行されたときには、当事者から遠ければ遠いほどすっきりするものです。逆に近ければ近いほど、死刑が行われてもすっきりしません。被害者はもう元には戻らないのです。

それに実際に死刑を執行する刑務官は、日ごろ世話をしているわけだから死刑囚も人間だということをよく知っています。もちろん悪いことをしてきたということも知っているけれど、三度の食事もし、ときには改悛の情を見せたりしているのも知っている。そのことを知ったうえで殺すわけですから、刑務官たちは当然すっきりしません。

裁判官だって、殺せという命令を出すわけですから忸怩たるものがあります。

事件とも関わりがない、裁判とも関わりがない、執行とも関わりがない、といういちばん遠い第三者だけがすっきりする。死刑制度とはそういうものです。歴史的に考えても、第三者がすっきりするために、見せしめ的に行われてきたものだと思います。

死刑とは、不正に対して怒っている大衆をなだめるために行われる、一種の社会的な生け贄の制度ですね。そういう点から発達してきたことがすごく大きいと思います。

■国家が死刑を執行する意味とは?

国家にとっての死刑執行とは権力の行使です。国が人間を殺す権力を持っているということが問題なのです。戦争もそうです。

「日本は、国家としてなってない」と言う人たちがいますよね。そういう人たちのなかには、国は生殺与奪の権利を持っていなくてはいけないという考えがあります。つまり、国は悪い人間や世の中にとってマイナスになる人間は、時と場合によっては殺してよいのだというものです。国の行く手を阻んだり、国が侵略された場合には武力を持って「行って殺してこい」と国民に命令する、そういう力を持っているのが国家であると。

こういう考えの人たちは感情的な死刑支持の人たちとは別の人たちです。

私は国家が力を持てば持つほど怖いと思っています。現にヒトラーは、これはドイツにいたほうがいい人、これはいないほうがいい人と選別して、邪魔になればどんどん殺してしまいました。それと同じようなことが再び起こりかねません。たとえ、そういう人たちが、「私は絶対ヒトラーのようなことはしません」と言ったとしても、私は疑り深いから信じられません。

交戦権とか死刑を執行する権利というものは、どんな国も持たないでほしいと思います。

■死刑制度と密接に関わる社会のあり方

死刑賛成の人たちには、まず自分の感情をじっくり考えてみてほしい。本当に被害者や遺族のことを考えているのか、それとも単に自分のうっぷん晴らしなのかをよく考えてほしいと思います。

被害者や遺族は本当に腹立っています。人によっては国ごと、あるいは地球ごと壊したっていいくらいに怒っているし、悲しんでいるだろうと思います。でも、そういう立場にいない人たちのなかに、死刑を執行して犯人を殺せというふうにいきり立つ気持ちがあるとすれば、それは何だろうということをそれぞれが考えてみたほうがいいと思います。

人権という考え方が発明されて、ここまで進んでくれば死刑はなくならざるを得ません。ただこれは、たとえば犯罪の多さという社会のあり方と関係していると思います。

今、アメリカは暴力的な犯罪が多く発生し、それに伴いどんどん死刑が復活しています。しかしこの十年、犯罪は増加しています。日本でも1993年に死刑執行が再開されてからのほうが凶悪犯罪は多くなっています。

でも、凶悪犯罪の発生は死刑の有無とは関係のないことです。過度な競争社会で貧富の差がどんどん大きくなってきて、お金がない人間は虫けらみたいに見なされる、いわゆるアメリカ型の社会が進んでいけば、ひどい犯罪は増えていかざるを得ないのです。人々はそういう社会のあり方に嫌気が差し、それに対処していく方法がないために死刑支持者になっていく。ヨーロッパのようなわりあい穏やかな国々だと、死刑はスムーズになくなっていくのだろうと思います。

人々は慣れ親しんだことはなかなか頭が切り替わりません。日ごろ自分が犯罪とはそんなに関係がないので、考えている暇はないですよね。

これは、よく例に出すのですが、かつて尺貫法よりメートル法のほうが合理的だというので、日本は尺貫に慣れ親しんだ大衆の意向は無視してメートルを法律化しました。

それと同じく、フランスでの死刑廃止のプロセスのように、人権を考えるなら死刑廃止は合理的だということを国会に出る人がアピールし、選挙を通して変えていく。穏やかな社会だとそれができると思います。

そういう社会であれば死刑があろうがなかろうが、みんなはどっちでもいいのです。死刑に反対している候補だから投票をよそうなんて人はいません。死刑制度がなくたってやっていけるということを、みんな心のどこかでは実はわかっているのです。死刑がなくなったら世の中メチャクチャになってしまうという反応をするのはごく少数です。

大方の人は、世の中に犯罪が増えてどうしようもないときに、非力な自分ではどうしようもないから、死刑にしろという気持ちになるわけです。

日本の場合は、今後の社会の動向がとても関係すると思います。社会があまりいい方向にいっていないから、すごく心配です。

■人を殺すことに例外はない

死刑によって、その人の存在はなくなります。これ以上残酷なことは人間にとってないと思います。

人間はだれだって生きたいと思うものです。表層の意識で死にたいと願ってもお腹はすくわけですから、人間という存在の根本は「生きたい」ものだと私は思います。

個々の人たちが生きた身体を持っているということは、個々の人たちが侵すべからざる大切なものであるということです。殺すということは、それを壊してしまうわけですから最低のことです。

死刑だけではなく、犯罪で他者を殺しても同じことです。死刑に反対すると、「それじゃあ、あんたたちは人殺しの味方するのか」と言う人がいますけど、そうではなくて人を殺すこと全部が悪いのです。

ただ個人の殺人は勝手に行なわれるので、第三者には止めようがありません。死刑制度の殺人は、法改正で止められます。

また個人の殺人は決して正当化されませんが、死刑制度による殺人は正当化されてしまいます。

しかしどんな殺人も正当化されてはならないのです。人間の存在を押しつぶしてしまうほど残酷なことは、方法がどうであれ、ほかにはないと思います。そのことを国が率先して範を垂れるように死刑を行うということは、「時と場合によっては、正義があれば殺してもいい」と言っていることと同じです。

正義というのは、なにも国だけが持つわけではありません。個々の人だって正義感持って何かやる場合があります。

それぞれが、自らが「本当の正義」だと思うなら、場合によっては人を殺してもいいということになるでしょう。もし、カルト集団が殺人を実行しても、彼らの「正義」から見ればそれは犯罪ではなく、むしろいいことをやっているのです。テロもそうです。自分たちの「正義」のために殺すわけですから。

死刑を認めるということは、テロも認めなくてはいけないし、カルト集団による殺人も認めることになります。国家だけが許されるということはあり得ません。例外の仕組みを持ったらだめなのです。例外なく、殺してはいけないのです。

なぜなら、何度でも言いますが、人を殺すということが人間にとっていちばん残酷なことだからです。

(この原稿は、アムネスティの死刑廃止入門ビデオ「死刑廃止を考える」作製のため、1998年に行われたインタビューを再構成し、一部加筆したものです。)

 

【中山 千夏(なかやま・ちなつ)さんのプロフィール】

1948年熊本生まれ。1959年『がめつい奴』(芸術座)を始めとする舞台で子役として、以後、俳優、歌手、TVタレントとして活躍する。70年ごろから著作を発表し始める。77年、市民の政治参加をめざした政治団体「革新自由連合」の結成に参加、代表の一人となる。80年から参議院議員を一期務める。現在は著作活動に専念するかたわら、死刑廃止運動など市民運動を続けている。著書は『新・古事記伝』 『ヒットラーでも死刑にしないの?』 『新・からだノート』 『一語の辞典・おんな』 『カネを乗りこえる』他50数冊。趣味はスクーバダイビング。

ピーター・バラカンさん (ブロードキャスター)

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