死刑廃止 - 著名人メッセージ:綿井健陽さん(ジャーナリスト)

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綿井健陽(ジャーナリスト)

「最大と最小の間」

イラク、アフガニスタン、インドネシア、東ティモールなど、世界各地で戦争・武力紛争の取材をこの10年ほどやってきた。そこで見たものはほとんど、国家に殺される人たちの姿だった。空爆、銃撃、ミサイル、ロケット弾、迫撃砲、戦車砲、爆弾……。殺す側の手段や方法は多様だったが、殺される側の行きつく先はすべて死体だった。それらは首が吹き飛んだ遺体、脳髄が流れ出た遺体、内臓が噴き出た遺体、両眼が飛び出た遺体。一方で、外傷がほとんどない遺体、眠っているような穏やかな表情の遺体もあった。それらの遺体の周りには叫び声や泣き声だけが響くこともあれば、鳥の鳴き声とそよ風がなびく静かな風景のときもあった。なにせ歌声や歓声が遺体を囲むときだってあるから、人間の住む世界は実に奇妙なコントラストに満ちている。  

だが、それぞれの死にまつわるエピソードや物語は多々あっても、あらゆる死にフィクションはない。すべて悲惨な、リアルな、圧倒的な、事実としての人間の死だった。人間の死にフィクションはないと思う。  

「国家による殺人」の最大単位が戦争であり、最小単位が死刑であると私は解釈している。どちらも正義が叫ばれ、どちらも崇高な理由が常に語られる。どちらも「合法的」だ。「国家による暴力行為」はいつでも、どこの国でも最も隠されてきた。虐殺・暗殺・掃討・弾圧・脅迫・逮捕・拘束・拷問、そして死刑。どれもすべてその実態はよく見えない。  

「死刑 3人執行」。この国で起きていることを伝える短いヘッドラインと見出しに対して、だんだん驚かなくなっている自分がいる。最初は「えっ!」だった。しかし、すでに始まった「ベルトコンベヤー式処刑」を前に、「またか」という反応で飼いならされていく自分がここにいる。そして、ひょっとしてもう反応さえしなくなる自分が、すぐそこに待ち構えていないかと不安になる。  

戦争の現場でもそうだった。だんだん自分も、そして殺す側も、殺される側も、死に慣らされていくのだった。なるべく見ないようにする、なるべく考えないようにすることで。そして「戦争の日常」は流れていく。  

だが、見ようとすれば何かが見えてくる。考えようとすれば何かに気がつく。聞こうとすれば何かが聞こえてこないか。  

それでいいのか。それで本当にいいのか。それでOKなのか。「正義の戦争」はあるのか。「正しい殺人」を認めるのか。人間を殺すことに協力していいのか。……。  

この国はいよいよ「死刑の日常」をならす段階に入った。だが、たとえ誰かが、いやあなたがそれを認めても、私は認めない。私はそれに協力しない。戦争に反対することと、死刑に賛成することは、私の中では両立しないから。

綿井 健陽(わたい・たけはる)さんのプロフィール

1971年大阪府出身。ジャーナリスト。98年からアジアプレス・インターナショナルに所属。これまでにスリランカ民族紛争、スーダン飢餓、東ティモール独立紛争、米国のアフガニスタン攻撃、イラク戦争などを取材した。03年度「ボーン・上田記念国際記者賞」特別賞。ドキュメンタリー映画「リトルバーズ イラク戦火の家族たち」撮影・監督。著書 に「リト ルバー ズ 戦火のバグダッドから」(晶文社)など。最近は、月刊「創」の連載「逆視逆考」などで、「光市母子殺害事件」の報道を検証する取材・ルポなどを掲載している。綿井健陽:Web Journal ホームページ

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