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中国:天安門事件、23周年──未だ正義はなされず

2012年6月 3日
[国際事務局発表ニュース]
国・地域:中国
トピック:

袁可志の息子、袁力の遺影。袁力は天安門事件で人民解放軍の銃撃に倒れた。
袁可志の息子、袁力の遺影。袁力は天安門事件で人民解放軍の銃撃に倒れた。

北京の天安門広場とその周辺で起きた平和的デモに対する、中国の軍隊による武力弾圧から23周年を迎えるにあたって、1989年のこの事件について公開かつ独立した調査を行なうべきであるとアムネスティ・インターナショナルは中国政府に再度要請する。

6月3日の夜から4日にかけて人民解放軍が武器を持たない市民に発砲し、数千とは言わないまでも、数百人の死傷者を出した。今日に至るまで、中国政府は天安門事件について公に議論することを禁じている。にもかかわらず、これまでに多くの勇気ある中国の人びとが流血の惨事に関連する事件の再調査と責任者を審問するよう、政府に求める権利を平和的に行使してきた。

そうした勇気ある人びとの一人、軋偉林(Ya Weilin)は、事件の夜、当時22歳だった息子を銃殺された。20年以上、軋偉林と妻の張振霞(Zhang Zhenxia)は、政府が1989年の犠牲者と遺族に対し償いを求める署名をし、抗議活動に参加した。この5月末、軋偉林(73歳)は自宅下の車庫で首を吊って自殺した。軋偉林の死の直前、息子の死について書かれたメモを家族が見つけた。軋偉林は、政府が抗議の声を聞くことを拒絶したことに対し、死をもって抗議するとメモに記していた。

軋偉林は「天安門の母」のメンバーとしても積極的に活動していた。「天安門の母」は1989年の大虐殺による死亡事件について記録し、これについて政府が再調査するよう強く求めるために結成されたグループである。2011年以降に亡くなった「天安門の母」のメンバーたちの略歴を以下に紹介する。亡くなったメンバーの全てが、死ぬまで正義がなされることを待ち続けた。


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王培靖(Wang Peijing)

王培靖は2011年2月に脳卒中を起こし、その後亡くなった。彼女の娘の張向紅(Zhang Xianghong)は中国人民大学の学生だったが、1989年6月3日午前11時、兄と義理の妹と親戚の家から歩いて帰宅途中、人民解放軍が発砲した弾が張向紅の左胸に命中した。翌6月4日の朝に張向紅は亡くなった。20歳だった。

李淑娟(Li Shujuan)

李淑娟は2011年2月に心臓発作に倒れ、83歳で亡くなった。彼女の息子の任建民(Ren Jianmin)は 1989年の学生が主導したデモがあった当時30代で、たまたま北京を通過中に人民解放軍の銃弾に倒れた。任建民は入院費を負担することができず、しかたなく親族が任建民を河北省の自宅へ運んだ。任建民の家族は治療のためのお金が全くなく、任建民の容態は悪化した。1989年の中秋節の直後、耐え難い痛みに苦しみ、任建民は自殺した。

潘木治(Pan Muzhi)

潘木治は肺がんで闘病し続け、2011年7月に84歳で亡くなった。1989年4月、彼女の一番下の息子だった林仁富(Lin Renfu)は、自転車に乗っているとき人民解放軍の戦車にひき殺されたと伝えられる。亡くなる前に、林仁富は博士号を取得後、更に研究を続けるため日本に行く予定だった。林仁富は30歳だった。

肖昌宜(Xiao Changyi)

湖南省出身の肖昌宜は、2011年5月に74歳で亡くなった。1989年の学生民主化運動の弾圧のさなか、彼の息子の蕭波(Xiao Bo)は人民解放軍の銃弾に胸を撃たれ、死亡した。蕭波は当時27歳で、妻と双子の息子を残して亡くなった。

「天安門の母」の丁子霖は、肖昌宜の楽観的な性格を忘れることはできないと語っている。肖昌宜が丁子霖に宛てた手紙の中で、6月4日の事件の犠牲者とその家族のために正義をなし、事件を決着させるまでには「長い闘争を経なければならないが、最終的には解決すると私は信じている。私はまた、そう覚悟している。」と肖昌宜は述べている。

楊銀山(Yang Yinshan)

楊銀山は死因不明であるが2011年7月に亡くなった。80代だった。彼の息子の楊振江(Yang Zhenjiang)は1989年当時、北京のホテルで働いていた。6月4日、人民解放軍が発砲した弾が左脚の動脈に当たった。楊振江は病院に搬送されたが亡くなった。32歳だった。

袁可志(Yuan Kezhi)

袁可志は2011年8月に95歳で亡くなった。1989年6月3日、彼女のひとり息子、袁力(Yuan Li)は人民解放軍に喉を撃たれ亡くなった。袁力は29歳のエンジニアだった。

2年前の2010年、袁可志は丁子霖に次のように語った。「中国はいずれ法治国家になり、国全体が、あの民主化運動を法的な観点から再評価するよう迫られることになるでしょう。」

軋偉林(Ya Weilin)

軋偉林と妻の張振霞(2003年)。 軋偉林は5月25日に自殺した。軋偉林と妻の張振霞(2003年)。 軋偉林は5月25日に自殺した。

軋偉林は5月25日、北京の自宅下の車庫で首を吊って自殺した。73歳だった。1989年6月3日、当時22歳だった彼の息子、軋愛国(Ya Aiguo)は天安門広場の西側で買い物をしていたところ、人民解放軍に頭を撃ち抜かれて亡くなった。軋愛国の両親は、この二日後に北京の三〇一医院(中国人民解放軍総医院)で彼の遺体を見つけることができた。両親は故郷の天津で軋愛国を埋葬した。

軋偉林が自殺する前、軋偉林と妻の張振霞は「天安門の母」のメンバーとして積極的に活動していた。二人は警察の脅迫や監視に直面しながらも、1989年6月3日から4日にかけて天安門広場とその周囲で一般市民を殺害した事件を、中国政府が再調査することを実現させるために要請書に署名し、抗議活動に参加していた。軋偉林の家族は彼が書き残したメモを見つけた。メモには彼の名前と所属する職場の名称が添えられ、息子の死に関する情報が綴られていた。軋偉林はさらに、20年以上も彼の抗議が聞き入れられることはなかったこと、これに対し政府の怠慢に死をもって抗議するつもりであることを書き留めていた。

アムネスティ・インターナショナルは中国政府に以下を要請する:

  • 1989年の軍事弾圧について公開で独立した調査を開始し、そこで起きた人権侵害を公式に認めること。特に、全国人民代表大会は、中国憲法第71条に則り、1989年の武力弾圧に関して調査委員会を設置することが求められている。
  • 軍事弾圧における死傷者一人一人について事情を明らかにし、1989年の民主化運動に関与した、平和的に自らの人権を行使したことを理由に現在も拘禁されている人びとを釈放すること。
  • 1989年の民主化運動は合法的なものだったと認めること。
  • 1989年の抗議について再評価を求める個人や活動家、さらに1989年の事件に関する追悼を行おうとする人びとに対する嫌がらせを止めること。
  • 1989年の民主化運動に関連する犠牲者とその家族が6月3日から4日にかけて行われた軍事弾圧のさなか、あるいはその後に受けた損害に対して賠償すること。

「天安門の母」についてもっとよく知る >
1989年 天安門で何が起こったのか? >


アムネスティ国際配信ニュース 2012年6月1日

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