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人権の「今」がわかるニュース

活動【活動報告】第五回刑務所ゆかりの地めぐり

2019年10月11日、第五回刑務所ゆかりの地めぐりが行われました。台風が来る前日だったため、天気があまりよくなく、参加者4人で、鈴ヶ森刑場跡、南町奉行所跡、北町奉行所跡、小塚原刑場跡の計4カ所の史跡を巡りました。

南町奉行所跡地は石垣の一部が残されているだけでした。また、北町奉行所跡地も、奉行所があったことを示す看板があるのみでした。ここでは主に、強く印象に残った刑場の跡地について報告したいと思います。

鈴ヶ森刑場跡

品川の南、大森海岸駅から徒歩で10分ほどのところに、鈴ヶ森刑場の跡地とそこを管理する大経寺があります。すぐそばに幹線道路と住宅街があり、刑場跡はそれらに囲まれるようにひっそりと遺されています。たくさんの植木が植えられ、整備されていて、「刑場があった場所だ」ということを知らなければ、お寺に敷設された公園のようにも思えます。

しかし、はねた首についた血しぶきを洗い流すために使ったとされる首洗いの井や、磔台と火炙台(磔と火あぶりの際に柱を立てるための石台)が遺されており、処刑場としての当時の面影をいまに伝えています。特に磔台と火炙台は実際にそこで多くの人が凄まじい苦痛の中で息絶えた場所であり、使用されなくなってから100年以上がたった現在でもとても不気味なものに見えました。

鈴ヶ森刑場は江戸の南の入り口、東海道沿いに作られ、江戸に入ってくる人々への見せしめとして、獄門、磔、火あぶり等の残虐な刑罰の執行の場として使われていました。現在は埋め立てられていますが、当時は海に面しており、さらされた罪人の首や遺体が海風に吹き付けられるさまは、さぞ凄惨で恐ろしいものであっただろうと思います。

また、当時は士農工商の身分制度を維持するために、犯罪が起こった際に、幕府はそれを解決できないということが許されなかったそうです。そのために、犯人が見つからない場合に無宿人などを犯人に仕立て上げ、苛烈な拷問によって自白を強要し、処刑していたのです。処刑された人々のうち推定4割がえん罪だったといわれています。

しかし、これを「昔はひどいことをしていたのだ」と過去の汚点としてのみ捉えてはいけないのだと思います。現在でも日本には死刑制度があり、我々には見えないところで執行されてはいますが、絞首刑は極めて残虐な刑罰で、えん罪で死刑判決を受けた人も大勢います。また、自らの威信を守るために、捜査機関が無実の人に自白を強要し、司法と検察が再審開始をかたくなに認めないさまは、当時の幕府のやり方とどこかでつながっているはずです。

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小塚原刑場跡

小塚原刑場跡とそこを管理する回向院と延命寺は南千住駅のすぐ近くにあります。小塚原刑場は日光街道に面した江戸の北の入り口にあり、鈴ヶ森刑場と同じようにさまざまな形での処刑に使われていました。江戸時代の200年間で約20万人以上の人が処刑されたと伝えられています。

また、罪人の遺体を使った刀の試し切りや、解剖学研究のための腑分けも行われていました。戦争もなく、刀を拭くことさえ御法度だった江戸時代に、刀の切れ味などどうでもよかったはずですが、処刑された後の遺体まで辱められていたのです。庶民の命や死者の尊厳はまったく大切にされていなかったのだということを強く感じました。

現在は処刑場だった当時の面影はほとんどなく、にぎやかな街の一角にある墓地にしか見えません。安政の大獄で処刑された橋本佐内や吉田松陰など有名人の墓もあります。また、延命寺の境内には処刑者の霊を供養するために建てられた首切り地蔵という大きなお地蔵さまがあり、東京の街を見守っています。

台風が迫る中での活動だったため、かなり駆け足での行程でしたが、刑場や奉行所の跡地をめぐりながら、人権について考える良い企画だったと思います。

(報告者:アムネスティ日本ボランティア 馬場峻也)

 

実施日 2019年10月11日(金)
場所 鈴ヶ森刑場跡、南町奉行所跡、北町奉行所跡、小塚原刑場跡
主催 アムネスティ日本 国内人権ネット

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