死刑廃止 - なぜ、アムネスティは死刑に反対するのか?

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死刑に賛成するあなたへ

人の命は、決して奪ってはならない

死刑に関しては、さまざまな意見があります。その中でもとくに多いのが、「被害者の人権はどうなる」「死刑が廃止されては、『被害者や遺族の感情が納得いかない』」という意見です。そして、この問題が、死刑をめぐる一番難しい問題なのだと思います。

この意見に込められた気持ちは、かけがえのない家族を失った、たとえようのない悲しみであり、また犯罪者への怒りであり、ほとんどの人が感じる、人間として当然の感情だと思います。もちろん私たちも、愛する家族や友人を奪われたとしたら……。悲しみ、喪失感、犯人への怒り、自責の念、想像するだけでも辛い気持ちになります。「犯人には死をもって償って欲しい」とすら、思うかもしれません。

しかし、その感情を認めたうえで、「死刑」というもう一つの「殺人」を私たちは選択するのか、ということを、もう一度、一緒に考えていただきたいのです。


被害者の人権はどうなるのか?

アムネスティは、死刑判決を受けた者が犯した罪について、これを過小評価したり、許したりしようとするわけでは、決してありません。被害者の方の失われた生命の重さ、遺族の喪失感や悲しみを思うとき、言葉を失います。

しかし、とても残念なことですが、被害者ご自身の「生きる権利」、遺族の方の家族とともに再び一緒に過ごす権利は、たとえ死刑によって加害者を殺 したとしても、戻ってはきません。


きちんと考えるべき被害者遺族の権利

殺人事件の後で、事件の真実を知る権利などの、被害者の遺族の権利もきちんと保障されるべきです。

本来は、こうした権利を、きちんと国が保障してきたのかを考えるべきです。そしてこの権利保障は、これまで十分になされていたとはいえませんでした。

2000年以降徐々に、裁判での傍聴権などが保障され、真実を知る権利の保障が改善されてきました。また、犯罪で家族を失った遺族が経済的に苦しまないように、被害者救済の制度も整えられてきました(Q&Aもご覧下さい)。

このように、被害者側の『人権』は、国家が経済的、心理的な支援を通じ、苦しみを緩和するためのシステムを構築することなどにより成し遂げられるべきものであって、死刑により加害者の命を奪うことによるものではない、とアムネスティは考えています。


「死刑賛成」は、私たちの社会への不安がもたらすもの


また、残虐な事件の報道を受けて、多くの人びとが「加害者を死刑にしなくては、被害者や遺族の感情が納得いかない」という意見を発します。実はこれは、「被害者の感情」を思うものであると同時に、裏を返せば「私たちの感情」の問題ともいえると思います。

この言葉の裏には、犯罪者に対する私たち自身の怒り、不安があり、死刑によってその犯罪者をこの世から消し去ることで、安心したがる私たちの感情が込められているのではないでしょうか? その感情は、いずれ他者への排斥につながりはしないでしょうか?

しかし、不安の原因と考えられる治安の悪化、犯罪の発生件数の増加のイメージについては、事実と正反対であることが統計に明らかなのです(Q&Aの項目もご覧下さい)。


被害者の遺族の気持ち

「犯罪で家族を亡くされたすべての方にとって、死刑がもっとも納得いく刑罰に違いない」と思われている方も、いらっしゃいます。

しかし、必ずしもそうとは限りません。というのも、凶悪犯罪の被害者が、加害者を死刑に罰することに対し、反対する場合もあるからです。当事者の受けとめ方には多様性があるということ、また、時間のながれの中でも変化するものであるということも、知っていただきたいと思います。

米国では、9.11に触発された犯罪が多発しましたが、その被害者の一人であるバングラデシュ移民のレイス・ブイヤンさんは、自分を撃った犯人の減刑を求めました。「私が信仰する宗教には、いつでも寛容は復讐に勝るという教えがあるのです」と、彼は述べています。

また、娘を殺害された米国の犯罪被害者の遺族マリエッタ・イェーガーさんは、「自分の娘の名において、もう一つの殺人が行われることを、娘が望んでいるとは思えない」とおっしゃっています。このように、死刑が解決につながると考えない被害者遺族も、多くおられるのです。

1983年1月に、弟を保険金詐欺のために殺害された遺族の原田正治さんは、さまざまな苦悩をへて、のちに加害者と面会をするまでになりました。しかし、2001年、加害者が死刑を執行されます。その時、原田さんは、加害者が処刑されても、我が家は何一つ変わらないと実感したそうです。「被害者遺族のために」と言われる死刑執行が、自分にとっては何のけじめにもならないと、原田さんは痛感したといいます。

犯罪によって大切な家族を失った遺族が、長期間の苦悶を通してたどり着く「答え」の重み。その中に、感じ取るべきことは多いと思います。


第三者である私たちができること

私たちの願いは、犯罪によって大切な人を失わないことです。その願いは、遺族にも、あなたにも、私たちにも、みな共通のものだと思います。

2011年7月22日に、たった一人の人間の手で77人の命を奪われるという悲劇におそわれたノルウェー。事件当時の法務大臣クヌート・ストールベルゲさんのお話をきく機会がありました。

国民に死刑をのぞむ声はなかったのか?との質問に対し、クヌートさんは答えています。「憎しみをもつ人はいたと思います。しかし、死刑をのぞむ声を公の場で聞いたことはありません。それは、彼を我々と同じ人間だが、違う考え方をしているのだととらえていることがあると思います」。

また、その寛容さは宗教によるものでしょうか?との質問には、「このような寛容の背景には、宗教ではなく、福祉制度と更生への努力が、犯罪をおさえるという理解があるのだと思います。また、首相の『暴力に暴力で対応してはいけない』というメッセージも国民に影響を与えたと思います。遺族も私たちも、死刑以外の『効果のある懲罰』をのぞんでいるのです。それは、これ以上犯罪による犠牲者を生まないこと、そのような犯罪を減らしていくことなのです」。

事件の第三者である私たちは、当事者に思いをよせつつも、その多様性も認識し、その上で、社会にとって最も適切な対処としての刑罰を、冷静に決めていく必要があると思います。

次の世代へ、「死刑」を引き継いではならない

なぜアムネスティは、「死刑」に反対するのか?

「生きる権利」は、すべての人が、人間であることによって当然に有する権利です。国籍や信条、性別を問わず、子どもも、大人も、この世に存在する誰もが、生を受けたときから、この権利を持っているのです。言うなれば、この「生きる権利」は、人間にとって根源的な、最も大切な権利であり、決して奪ってはならないものです。またこの権利は、世界人権宣言でうたわれ、国際人権条約である自由権規約においても保障されています。

アムネスティ・インターナショナルが「死刑」に反対するのは、「死刑」という刑罰が、この「生きる権利」を侵害するものであり、残虐かつ非人道的で品位を傷つける刑罰であると考えるからです。

言うまでもなく、犯罪を処罰することを否定しているわけではありません。しかし、命を奪うことは、たとえ国家の名の下であっても、正義にはなりません。人為的に生命を奪う権利は、何人にも、どのような理由によってもありえないのです。

そもそも、刑罰とは、罪に対してそれに見合った罰をくわえることです。この刑罰は、私たちの社会をなりたたせるために必要です。しかし、注意が必要なのは、刑罰を用いるのは国家であることから、その行使には、限界をもうける必要があるということです。そのために「世界人権宣言」をはじめとする各種国際人権規約が、「生きる権利」を規定しているのです。なぜなら、国家権力は、つねに市民の人権を踏みにじる暴走の危険性をもっているからです。このことは、歴史をみても、世界の情勢をみても明らかです。そして、死刑は国家権力による暴力の一つの極限的あらわれなのです。


人間の「生きる権利」は、誰にも奪えない

死刑制度は、私たちの意識の深層に、「秩序を乱せば殺す」「秩序は人の生命にも優先する」という思想を、植え付けることにもなっていないでしょうか。この思想は、「生命の尊厳は絶対である」という人権思想と、実は対極にあるものといえます。

このような思想が死刑制度を容認する限り、私たちの子どもたちも、いわば「生命よりも、社会的な秩序が大切である」社会を生きることになります。

社会秩序や治安が大切なのは当然です。しかし、生命がそのための手段に使われてはならない。それを認めれば、政治が市民の生命を踏みにじる時代に、いつでも逆戻りしてしまいます。私たちは、そのような社会を、次の世代に引き継がせたくありません。

生きる権利は、誰もが有する基本的な人権です。人為的に生命を奪う権利は、何人にも、どのような理由によってもありえない。国家さえもそれを奪うことはできない。これが、生きる権利を保障する「人権思想」というものであり、アムネスティが抱いている理念です。

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