朝鮮民主主義人民共和国:人権に関する懸念

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2006年12月15日
国・地域:朝鮮民主主義人民共和国
トピック:危機にある個人
朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)による10月9日の核実験実施以降、同国に対する注目が高まっていることを考慮して、同国に対するアムネスティ・インターナショナルの懸念事項をまとめた。

人権に関する情報入手の制限
同国に関する情報およびアクセスは依然、厳重に規制されたままであり、人権状況の調査を妨げている。

再三に及ぶ要請にもかかわらず、同国政府は、DPRKの人権に関する国連特別報告官、食糧の権利に関する国連特別報告官ばかりではなく、アムネスティ・インターナショナルおよび他の独立した人権監視者のアクセスを拒絶し続けた。ただし、同国政府は、過去5年間にわたって、「子どもの権利委員会」を含む国連機関のアクセスについて許可している。

上記の各機関、多数の国々(韓国・日本を含む)に現在定住している同国からの人びと、人権NGO,メディア関係者からの報告によると、政治囚の処刑・拷問・拘禁を含む重大な人権侵害および非人道的な刑務所の状況があると考えられる。

11月17日、国連総会第三委員会は、賛成91票、反対21票、棄権60によりDPRKの人権記録を非難する2回目の決議を採択した。この決議は、2005年11月に採択された先の決議よりも厳しい口調の内容を含み、国連事務総長(事務総長に指名された潘基文氏(大韓民国の前外務大臣))に対してDPRKの人権状況に関する包括的な報告書を提出するよう要請している。

食糧危機の悪化
食糧の権利に関するジーン・ジーグラー特別報告官によると、DPRKの人口の12パーセントが厳しい飢餓状態にある(2006年10月)。

DPRKにおける慢性的な食糧危機は、同国の孤立と地理的要因(同国土の70パーセントが山岳地帯で農耕が困難)によるものと思われる。その他の重要な要因としては、同国政府による誤った政策、移動・情報の自由に対する政府による規制・透明性の欠如と独立した監視に対する妨害(すなわち最も必要とする層に食糧支援が必ずしも届かないことを意味する)が変わらず継続したこと等が挙げられる。

DPRK政府が今後は中・長期的ニーズに対する支援のみを受け入れることを宣言した後、世界食糧計画(WFP)は、10年間にわたる同国への緊急援助を2005年12月に終了した。同国政府は、収穫高の上昇、依存文化の現れに対する国内での懸念、WFPの監視「介入」に言及した。この決定により、ピーク時には46名いた海外スタッフがわずか10名に減り、監視回数も激減した。2006年2月、WFPは、同国の人びと190万人分の生活必需品15万トンの支給および女性と子どものためのビタミン・ミネラル強化食品の国内生産援助資金を含む1億2百万ドル相当の2カ年計画を承認した。しかし、2006年6月に始まった同計画は、2006年10月現在、WFPが受けている資金は必要とされる1億2百万ドルのわずか10パーセントにすぎない。この資金問題によってその実施が阻まれている。

国連食糧農業機関は、現在の市場年度(2005年11月~2006年10月)の穀物不足を必要最小限度の20パーセント以下の90万トンと予測したが、これは、2006年7月・8月に同国を襲った大洪水が起きる前に予測された数字である。

これらの洪水後、DPRK政府は、何百人もの国民が死亡ないしは行方不明になったと報告し、何万人もの人びとが家を失ったと発表した。先の予測では洪水による今年度収穫の被害を穀物9万トンの範囲と見積もったが、道路・橋梁・鉄道網などのインフラが広範囲に深刻な被害を受けたとの報告も出された。

2006年7月にDPRKがミサイル実験を行った後、最大の支援国の一つである韓国は食糧援助を大幅に減らした。DPRKはコメ100万トン以上の不足分を韓国からの食糧支援に依存していた。8月の深刻な洪水被害でDPRKが支援を訴えた際、韓国は態度を軟化させたものの、昨年の50万トンに比べ、「緊急」支援で送ると発表した10万トンのわずか半分しか送らなかった。また、10月に行われたDPRKの核実験後、韓国は食糧支援を中断し、中国もまた約60パーセントの支援削減を実施するものと思われる。

2005年後半、政府による配給が一部あったが、多くの人びとは全く配給を受けなかった。最近の報告によると、平壌の人びとは2006年の春に食糧が充分でなく、同国政府は、餓死寸前の人たちに対し、生き残りに必要な最低限の割当て食料を配布するための事務所を設置しなければならないほどだった。海外からの人道支援の削減と夏の洪水が相まって、2005年後半には公共配給制度が再開され、飢餓の悲劇的な再来と中国への新たなる民族大移動につながる可能性があった。

2005年7月、女性に対するあらゆる形態の暴力廃絶のための国連委員会は、過去10年間にわたって同国を襲った飢餓および天災によって、女性が人身売買や売春、その他の搾取の犠牲になる危険があると懸念を表明し、特に農村部出身の女性、生計の主な担い手である女性、若い女性についての懸念を提起した。

子どもの栄養失調
国際的支援の継続により、子どもの栄養失調はいくらか改善された。2004年10月に実施された調査によると、2002年~2004年の間にDPRKにおける子どもの栄養失調率は減少したものの、依然として比較的高い状態にある。2005年3月に調査結果を発表した国連機関は、さらなる改善のためには、十分に対象をしぼった実質的な国際的支援の継続が必須であると述べた。

2004年10月、ユニセフとWFPとの共同で行なわれたDPRK政府の担当部署による2004年の子ども・妊産婦の栄養状況に関する調査結果は下記のとおりである。

慢性的に栄養失調・発育不全(身長/年齢値)の幼児の割合は、前回の調査が実施された2002年の42パーセントから今回37パーセントに減少。
急性栄養失調・消耗(体重/身長値)は、2002年の9パーセントから7パーセントに減少。
低体重(体重/年齢値)の6歳未満の子どもの割合は21パーセントから23パーセントに増加、また、最も栄養失調の影響を受けやすい1~2歳の割合は、25パーセントから21パーセントに減少。
DPRKの母親の約3分の1が栄養失調で貧血状態にある。

子どもの栄養失調状況は地域により大きな格差があり、食糧の確保が不安定な北部地域ほど栄養失調率が高く、比較的肥沃で豊かな南部(特に平壌)に行くほど低くなる。

国連の「子どもの権利委員会(CRC)」は、2004年6月、幼児・子どもの死亡率が依然として高いこと、子どもの栄養失調と発育不全の割合が高いこと、妊産婦の死亡率が比較的高いことに対して懸念を表明した。また、清浄な飲料水を手に入れることができないことや衛生設備の不備に関しても深い懸念を表明した。

死刑
死刑は絞首刑あるいは銃殺刑による。2003年3月、同国政府は、犯罪者の公開処刑を控えると発表したが、2005年には政治囚刑務所の政治的反対者の処刑や、食べ物を盗むなどの経済犯罪による処刑が新たに報告された。

ソン・ジョン・ナム(48歳)は、2002年より韓国と情報を共有し、韓国に定住した朝鮮民主主義人民共和国人である兄から金銭的援助を受けたとして祖国を「裏切った」罪により死刑判決を受けたとの報告があった。2006年4月現在、国連関係筋によると、同氏は平壌の保衛部の地下室に監禁され、「ひどい拷問により瀕死状態にある」とのことである。彼は1997年に妻・息子・兄と共にDPRKを離れキリスト教者となった(同国では重罪とみなされる)。同氏は、2001年4月に中国当局によりDPRKに強制送還され、咸鏡北道(ハムギョンプクト)の収容所に3年間投獄された。2004年5月に釈放され、DPRKに戻る前に中国で兄と会ったが、当局には彼が兄と会ったことが密告されていたため2006年1月に逮捕された。同氏が、兄に自分の家族のことやDPRKの人びとが金正日のことをどのように思っているかをしゃべったことは明らかである。
約70名の同国の人びとが中国から強制送還された後、2005年1月に公開処刑されたとの報告(未確認)がある。また、布教活動あるいは地下教会活動の罪により処刑された人びとのことも報告されている。
さらに、公開処刑において2人が銃殺されるシーンを収録したビデオ映像が出現した。この処刑は、3月1日に北東部の会寧(フェリョン)市で、人身売買や無許可の中国訪問幇助の罪で起訴された11名の公開裁判に続いて行われたと報告されている。この映像にはさらに近隣の遊仙(ユソン)市で3月2日に行われたという処刑も収録されている。

表現の自由
いかなる反対も容認されない。報告によると、支配勢力である朝鮮労働党の見解に反対の意見を表明する人は誰でも厳しい処罰を受け、その家族も同様の処罰を受ける場合が多い。

2006年10月、国境なき記者団の第5年次世界報道の自由指標は、同国を報道の自由の違反国として最悪に位置づけた。国内の報道機関は厳しく検閲され、海外のメディア放送へのアクセスは制限されている。報告によると、1990年代半ばより少なくとも40人のジャーナリストが、高官ひとりの名前のスペルミスといった間違いだけで「再教育」されたという。DPRKの報道全体が金正日による直接統制下にある(特に労働新聞、朝鮮中央通信、国営テレビの朝鮮中央放送)。各ジャーナリストは、間違いなく故金日成主席およびその息子の金正日の偉大さを表現することができるように教え込まれると伝えられている。また、報道は、金持ち層や帝国主義者の腐敗に対してDPRKの社会主義の優位性を誇示する責任を負っている。タイプミスには、極めて高い代償を払わされる。国境なき記者団によると、DPRKの多くの報道関係者が単純なスペルミスで「革命」収容所に送られるという。警察によるラジオのチェック(すべてのラジオはチャンネルを固定する細工が施され、公的なラジオ周波数のみしか受信できない)にもかかわらず、中国国境から入ってくるラジオ放送の数は増えており、韓国のラジオ放送を聞くことも可能である。外国のラジオ局の放送を聞くことは処罰の危険を冒すことになる。

無許可の集会や団体はすべて「集団的騒乱」とみなされ罰せられる。宗教の自由は憲法で保証されてはいるものの、実際には厳しく抑えられており、公的私的にかかわらず宗教活動に関っている人たちへの厳しい弾圧(投獄・拷問・処刑)が報告されている。多くのキリスト教者が、極めて過酷な状態にあると報告されている労働収容所に拘禁されているという。

拷問・虐待・刑務所の状況
法律が一部変更されたものの、依然として政治的投獄および時として恣意的な投獄・拷問・死刑が続いている。処罰は、強制送還された人の年齢・性別・経験により決定される傾向にあると伝えられている。女性や子どもは、拘置所で2週間という軽い判決もあるが、通常、労働収容所で数カ月という長期の判決を受ける。伝えられるところによると、強制送還されて最も酷い目に合うのは妊婦(劣悪な医療環境下で強制堕胎をさせられる)および韓国人あるいは宣教師と会ったことを告白した人とされている。即決処刑および長期の過酷な労働は依然としてあるが、監視下で被収容者が病気になり死亡するのを当局が警戒していることは明白である。死期が近いと思われる被収容者は釈放され、多くが釈放後の翌週に死亡する。

未確認情報によると、拘置所・刑務所・労働収容所では拷問や虐待が広く行われているという。状況が極めて過酷であることは明らかである。中国から強制送還された人は、国家保衛部あるいは人民安全局により運営される拘置所あるいは警察署で拘禁され尋問される。

尋問中の殴打は一般的であると伝えられており、被収容者同士で対話しているのが見つかると木製あるいは鉄製の棒で殴打され、冬の最中にも殴打後に冷水を身体にかけられるという。一部の被収容者は、身体を縛り上げられて大量の水を無理やり飲まされる「水拷問」を受けると伝えられている。

長期的な食糧不足が、過密状態にある拘置所・刑務所の状況をさらに悪化させる大きな要因となっている。アムネスティ・インターナショナルが集めた証言によると、拘置所における主な問題は、飢饉、食糧危機が原因の食糧不足である。証言によると、拘置所にいる間に人びとが餓死するという。また、食糧不足が、政治囚刑罰労働コロニーあるいは「管理所」(kwalliso)で栄養失調から死亡にいたる原因となっている。

2004年6月、国連の「子どもの権利委員会(CRC)」は、未成年者に対する組織的暴力(特に拘置所や社会施設において)の報告に懸念を表明した。

難民
DPRKの1990年代における経済破綻および飢饉と、これに続く食糧不足により、何万人もの人びとが中国などに避難する事態が生じた。国際危機グループによる最近の推定では、中国内にいるDPRKからの人びとの総数は最大約10万規模とされ、このうち、わずか9千人をやや上回る人びとが韓国に渡り定住した。その他、少数が日本、欧州、米国に渡り、これらの国々で多くが難民の地位を付与された。

中国は、人びとがDPRKから絶え間なく越境し続け大量流入する事態を望まない。このため、DPRKにおける夏の洪水による農作物・インフラ被害の発生後、中国は、厳しい取締り(2002年12月より継続)に加えて、新たに有刺鉄線の柵を丹東(タントン)の鴨緑江沿いに建設中である。中国側に設けた掲示板には「近隣国からの不法越境者に対して金銭的援助、かくまう、定住支援などをすることを禁ずる」と表示してある。1960年の「逃亡犯相互引渡し条約」と1986年の「国境地帯問題に関する協定」がDPRKからの越境者に対する公式な中国の方針のガイドラインとなっている。中国当局によってDPRKからの越境者は不法出稼ぎ労働者として分類されるため、これらの2国間協定の下に強制送還され、国際的な保護あるいは国連難民高等弁務官(UNHCR)による面接を受けることも拒まれる。

中国から越境者が大量に強制送還されてくる結果、DPRK政府は、判決を緩め、あるいは刑法を変更せざるを得なくなった。1999年の変更では「不法越境」と「同国転覆を意図した」越境との区別がなされ、2004年の変更では更に「越境」と「再三にわたる越境」との区別がなされた。この変更では、無許可で「再三にわたる越境」をすれば最高2年間の強制収容所(1999年の法律では3年間)の罰則が適用される犯罪行為となる。また、「降伏・忠誠の変更(および)機密情報の譲渡」などの国家反逆行為は5年~10年の過酷な労働による処罰、あるいはさらに重大なケースでは10年から終身に及ぶ処罰が適用される。

多くの囚人が、労働鍛錬所から地方の拘置所への移送時に逃亡する機会を利用し、あるいは釈放後に中国へ戻る。こうしてDPRKに強制送還されたうちの40パーセントもの人びとが中国へ再入国する。

過去数年間にわたりDPRKは、仲介者および祖国脱出を目論む人びとを対象に国境警備を強化したと伝えられる。密かに持ち出された2005年の公開処刑映像には人身売買および不法越境の罪によるものも含まれていた。2006年2月、同国脱出を計画したとして、または韓国もしくは中国と関係を持ったとして、北部国境にある会寧(フェリョン)市において300人が逮捕されたと報告された。また、5月には、難民を装った朝鮮民主主義人民共和国工作員217人が、大規模な情報収集工作の一環として中国に配備されたと噂された。中国は相変わらずUNHCRに照会することなくDPRKからの人びとの逮捕・強制送還を継続しており、さらには彼らの保護・移送に関る宣教師・支援者・仲介者を標的にしている。中国および韓国でこの問題を観察している人びとは、中国北東部の瀋陽市近辺において現在行われている厳しい取締りは、2008年のオリンピック準備のための「一掃」作戦によるものとしている。中国に数年間いた後、最近韓国に来たDPRKからの人びとは、このオリンピック前の対策が韓国への脱出を決心する動機になったと述べている。伝えられるところでは、毎週、推定150人~300人の人びとが中国からDPRKに強制送還されている。

国連子どもの権利委員会は、2004年6月、中国国境の町におけるDPRKからのストリート・チルドレンに関する報告で懸念を表明し、さらに、DPRKに戻った、あるいは国外追放により戻された子どもたち(およびその家族)を、DPRK政府が犠牲者としてではなく犯罪者とみなしたとの報告に深く懸念を示した。

李クワンスー氏は、妻、2人の子どもと1人の友人と共に東海岸(江原道)に沿って海岸国境を2006年3月にボートで移動して韓国に辿り着いた。韓国に到着後すぐにDPRKにいる自分の家族、および友人の妻と家族に関する問い合わせをしたが、8月に、その家族(全部で19人)が行方不明になっていることが判明した。李氏には彼らの行方について全く心当たりがない。彼らは、2006年3月(同氏がDPRKを離れた後)から8月初旬の間に行方不明になった。また、彼の家族の「国家および人民への裏切り」に対して特別に焦点を当てた会合がDPRK当局者によって組織されたことを李氏は耳にしている。

AI Index: ASA 24/002/2006
2006年11月24日