米国:CIA秘密収容所に拘禁され「失踪」したイエメン男性の証言

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2005年11月16日
[国際事務局発表ニュース]
国・地域:米国
トピック:「テロとの闘い」における人権侵害
CIAの秘密拘禁施設に収容され「失踪」状態となっていたイエメン国籍の男性に対し、アムネスティの調査団がインタビューした証言の詳細。

米国/イエメン:「行方不明」、秘密拘禁と恣意的拘禁
ケースシート


氏名:ムハンマド・アブドゥラ・サラー・アルアサド
国籍:イエメン
年齢:45歳
既婚、子ども5人

アムネスティ・インターナショナルは、米国政府が世界中に秘密収容所のネットワークをもち、そこでは「テロに対する戦い」の大義名分のもと、不特定多数が不明な状況で拘禁されているという信頼できる報告を受け続けている。2005年9月、アムネスティは、この非道な制度によって16か月にわたり米国当局の手で「失踪」させられていたムハンマド・アルアサド氏の証言を得た。

イエメン国籍を持つムハンマド・アルアサド氏は、拘禁されるまでの25年間、タンザニアに住んでいた。彼はディーゼルエンジンの部品を輸入する小さな会社を営んでいたが、1997年、所有していた事務所をサウジのチャリティ団体「アルハラマイン・イスラミック・ファウンデーション」に貸し出した。2001年9月11日の米国に対するテロ攻撃以降、このチャリティ団体は、テロリストの資金源である可能性があるとして、米国政府のブラックリストの対象となった。


逮捕と米国への身柄拘留

「怖くて仕方がありませんでした。自分の身になにが起こっているのか、ただ尋ね続けました。」(ムハンマド・アルアサド氏)


2003年12月26日の夜、タンザニアの入国管理官がムハンマド・アルアサド氏宅を訪ね、その場で逮捕した。彼は頭に布をかぶせられ、手錠をかけられたうえでアパートに連行され、そこでパスポートについて尋問された。

彼はそこから飛行機へと連れて行かれた。自分の身になにが起こっているのか監視員に尋ねたが、一人は「自分たちは命令に従っているだけだからわからない。責任者はもっと上のものだ」と言ったという。彼は、飛行機に乗る際に頭を押さえられたことから、自分が乗せられたのは小型飛行機に違いないと思ったという。

ムハンマド・アルアサド氏は、飛行機に乗っていたのは3時間くらいだったという。混乱し怯えていた彼は、どこに連れて行かれたのか今でもわからないが、監視員の一人がソマリアかエチオピアのアクセントのあるアラビア語を話していたこと、そして与えられたパンは典型的な東アフリカのものだったとアムネスティに語った。アルアサド氏はここで約2週間にわたり拘禁され、3回から4回の尋問を受けた。尋問は、英語を話す女性によって行われ。アラビア語を上手に話す白人男性が通訳を担当した。彼はチャリティ団体アルハラマインについて尋ねられたという。


2度目の移送

2週間が経った頃、アルアサド氏は再び頭巾を被せられ、手錠をかけられ、前回よりも大きいと思われる飛行機に乗せられた。8時間近く飛んだあと、途中どこかで1時間ほど着陸し、さらに3時間飛行機に乗っていたという。以前よりももっと寒いところに連れて来られたと感じたという。

彼はここでは前回よりも広い房に入れられた。古くて窓が一つもないこの房は、床にマットレスがある以外には何もなかったという。毛布が与えられず、とても寒かったという。彼はここで9日間一人きりにされ、話す相手は誰もいなかった。

ここでは尋問担当者も通訳も40歳くらいの白人男性で、監視員も英語圏出身者だった。ここでもアルハラマインとこのチャリティ団体と彼とのつながりについて同様の質問をされた。2週間ここに拘禁されたあと再度移送された。車で20分ほど行ったところにある、さらに狭くて古い、前回と似たような監房に収容された。ここでの3
か月間、尋問はごく不定期に行われ、尋問担当者も質問も変わることはなかった。


秘密収容所

「お前がここに連れてこられたのは神の思し召しだ。神だけがお前をここから出すことができる。」(尋問担当者が米国の秘密収容所でムハンマドに対して)


2004年4月、ムハンマド・アルアサド氏はまた飛行機に5~6時間乗せられた。ヘリコプターに移されると、荒々しく床に投げ出された。別の米国の施設に移されたのだ。アルアサド氏がアムネスティに語ったこの施設の特徴は、米国の秘密収容所に拘禁されていた別の2人の被拘禁者サラー・ナセル・サリムアリとムハンマド・ファラジが2005年6月にアムネスティに証言した施設と非常に似通っている。それは、下記のような特徴だ。

  • 監視員の服装は黒ずくめだった。一言も話さず、コミュニケーションは身振り手振りで行われた。
  • 収容所には飾りや目立った案内は全くなく、床を覆うものもなかった。また、3人全員が全く同じ方法で、尋問を受け、感覚を遮断されていた。
  • 常に拡声器から雑音が流れていた。
  • 1日24時間人工照明がついていた。被拘禁者、食事の時間と祈りの時間を手がかりにするしか、時刻を知るすべがなかった。
  • 監房には窓が全くなかった。この施設に収容されている間、彼らは陽の光を見ることは一切なかった。
  • 尋問担当者以外の人と話すのを禁じられていた。
  • 1週間に一度、シャワーを浴びるために監房から出された。
  • 拘禁期間の最後の4か月、ムハンマド・アルアサ氏は1週間に3回、30分だけひとりでサッカーをすることを許された。


イエメンへの帰国と継続拘禁

「もし私が罪を犯したならば、裁判にかけてください。残りの一生を刑務所で過ごしても構いません。私はただ裁判の機会を与えて欲しいのです。」(ムハンマド・アルアサド氏が2005年9月にアムネスティに対して語った言葉)

 
2005年5月5日、ムハンマド・アルアサド氏は秘密収容所から連れ出され、イエメンへ帰国した。ムハンマドは、サラ・アリとムハンマド・バシュミラと同じ飛行機に乗っていたと主張している。

3人は2週間にわたってサナアの政治治安刑務所に収容された。その後アルアサド氏はイエメンの東に位置するアル・ガイダに移され、他の2人はアデンに移された。

アルアサド氏は移送後も4か月間、拘禁された。アムネスティがイエメン政府関係者に彼ら3人の地位について尋ねると、3人を継続して拘禁するよう指示されており、裁判に必要なファイルが米国から届くのを待っている、と回答した。この政府関係者によると、指示はイエメンの米国大使館からのものだという。

米国が要求すれば3人を釈放するのかとのアムネスティの問いに、政治治安刑務所の高官は迷わず「釈放する」と答えた。


家 族

「彼らは夜中にやって来てお父さんを連れて行った。まるで泥棒みたいに」
(アルアサド氏の12歳の娘ファティマ・アルアサドさん)


アルアサド氏の家族は、彼がどこにいるのかわからないという精神・心理的負担に、1年半以上も耐えなければならなかった。また、彼の「失踪」と継続的な拘禁による経済的欠如にも耐えなくてはならなかった。

タンザニア当局は、妻にアルアサド氏はイエメンに国外退去させられたと伝えてい
た。アルアサド氏の75歳の父はこのことを知ると、人里離れたマハラから1,300キロ離れた首都のサナアへと息子を探しに出た。父親は、息子がイエメンに入国していないことを確認する書類を受け取った。また、タンザニアで人身保護令状を求めて嘆願書を提出した。父親は、ついに、息子は米国の拘禁施設へ移送されたと知らされたが、どこに連行されたのかは誰にもわからなかった。

アルアサド氏の妻ザ-ラ・サラウムは5人の子どもたちをつれてイエメンに移住しなくてはならなかった。アラビア語を話さない彼女は、経済的な問題に加え、イエメンの生活に慣れるのは大変だとアムネスティに語った。

アムネスティ・インターナショナル国際発表
(2005年11月8日)
AI Index: AMR 51/176/2005
 

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