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死刑廃止 - 著名人メッセージ:益永スミコさん

益永スミコさん(死刑囚養母)

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―戦争中は助産婦として働いていたそうですが、その頃のことをお話し下さい。

私は戦時中、大分の近くの村で、助産婦兼保健婦として働いていました。 戦争中は保健婦として衛生指導で村を回ったり、助産婦として「産めよ、増やせよ」と言ったりしてきました。

空襲警報が鳴っている中、明かりを漏らすわけにはいきませんから、窓に黒い覆いをしてその中でお産の介助をしたこともあります。そして敗戦までいろんな面で国に協力しました。

「産めよ、増やせよ」と言われても、産んでから兵隊に行くまで20年かかるわけですから、「今から産んでも間に合うのかな~」と思ったりもしましたけど、誰かが「100年戦争だ」って言うものですから、「じゃ、間に合うんだ」などと納得したりして……。

人を殺してはいけないということは、小さいときから学校で習ってはいました。でも戦時中は、戦争が「人殺し」だとは思ってもみませんでした。 よその国を侵略しているなんてわかりませんでしたし、そもそも戦争というものは天皇に命を捧げるために死にに行くものだと教育されていましたから。

おかしいと思うこともありましたけど、敵が人を殺すのだから仕方がないのだと思って、国のために協力してきました。

でもさんざん協力しておきながら、戦争が終わった時には正直言って「あ~よかった。これで生きられる。戦争しないでいい」と思いましたよ。人間矛盾だらけです。

戦争中は多くの人が空襲で家を焼かれたり死んだりしましたし、私自身もさんざんな目にあったわけですから、敗戦と同時に安心してしまったんですね。それで、自分らがそれまでやってきたことを、反省する余裕なんかなかったのです。

―戦後は名古屋に移り、労働組合の結成にもたずさわったと聞いていますが、そのあたりのことをお話し下さい。

戦後しばらくの間は社会の問題など特に深く考えたりはしませんでした。 新しい憲法ができて民主主義の世の中になったのですから、選挙に行って投票さえしていれば戦争しなくてすむのだと、なんとなくそう思って暮らしてきたわけです。他のことは考えずに自分のことだけを考えていればいいと思いましてね……。でも、なかなか思うようにはいかないのです。

私は戦後もしばらく村で助産婦をやっていましたが、若者が町へどんどん出て行くにつれてお産の数も減り、私の仕事も少なくなりました。 それで私も村を出て、夫の後を追って名古屋へ行きました。ちょうど伊勢湾台風の後で、大工をしていた私の夫は復興のために名古屋で働いていたのです。

名古屋に移った私は、ある総合病院に助産婦として就職しました。ここならきっといい仕事ができるだろうと夢を持って働き始めたのですが、そうではありませんでした。

たしかに見かけや設備はいいのですが、でも本当の医療をやろうと思ったら人手が足らないのです。その他にもいろいろな矛盾を感じていましたけど、当時の私にはどう解決したらいいのかまったくわかりませんでした。

そんな中、一枚のチラシを拾ったのです。 チラシは名古屋市内で行われる労働組合の集会の案内でした。私はどんな集まりなのかよくわからないまま、とにかく出かけていきました。

そして集会の後、主催者の組合員をつかまえて、病院の現状を何とかしたいという私の想いを訴えました。このことをきっかけに労働組合の人たちとのつながりが出来、私も自分の病院に組合をつくることになったのです。

―戦争に協力したことを反省するようになったのは、どんなきっかけからだったのですか。

きっかけはいくつかあるのですが、組合をつくる際に相談に乗ってくれたKさんという人のお話が、今では一番印象に残っています。

Kさんは元憲兵で、戦争中は中国へ行っていました。お父さんは裁判官でお母さんは助産婦でした。Kさんが戦争から帰ってきたとき、裁判官のお父さんは身体が弱っていて、ほとんど寝たきりだったそうです。

ある日お父さんに栄養のあるものを食べてもらおうと、Kさんが闇米を買ってきました。そしてお母さんがそれを炊いていると、その匂いに気づいたお父さんが寝間から出てきたので、お母さんが「このままでは身体がまいってしまうから、お米を買ってきました。もうすぐ炊けますから待ってて下さい」と言ったそうです。

お父さんは何も言わずに部屋に戻りましたが、しばらくして線香の匂いがしてきました。「何だろう」と思ったお母さんが部屋へ行ってみると、お父さんは腹を切って自害していたそうです。

私はこの話を聞いたとき、今まで生活に追われて自分のことだけ考えていて、戦争に対する反省なんか全然しなかったことに気づいたのです。

私はこのKさんの指導の下で組合をつくりました。そこから私の反省が始まったのです。

―さて1974年8月に、東アジア反日武装戦線が死者8名を出す爆破事件を起こしたわけですが、このニュースを聞いた時にどんなことを思いましたか。

連続企業爆破事件:
東アジア反日武装戦線が日本企業のアジアへの経済侵略に抗議して、71年から75年にかけて起こした一連の爆破事件。 特に1974年8月30日の爆破事件では、8人が死亡し385人が重軽傷を負った。

私は当時、娘の産んだ子どもの世話をするため病院を辞め、娘といっしょに高槻市の市営住宅に住んでいました。事件のことはラジオで最初に聞いたのですが、そのときは正直言って「やったー」と思いました。

なぜかと言いますと、私が組合活動をしていたとき爆破された企業の組合員が私たちの所にやってきて、その会社が「死の商人」のようなことをやっていると話してくれたことがあるのです。 それが頭に残っていたので、私は本社爆破は別に悪いこととは思わなかったのです。あんなに大規模な爆発だったなんて初めは知りませんでしたから、むしろ共鳴すらしたのです。

しかし、その後死傷者が出たと聞いて大きなショックを受け、しばらくものが言えなくなりました。

―事件の裁判の傍聴に行くようになった経緯や、利明さんに初めて会ったときの印象などをお話し下さい。

そのころ私は、アムネスティをはじめとしてさまざまな市民運動に関わっていました。そしてあれやこれややっている中で、東京の救援連絡センターの人に誘われて利明の裁判の傍聴に行ったのです。

初めて面会したときの印象ですか……。ニコニコしていて普通の人でしたよ。

会って話すことは支援の様子のことがほとんどでした。その他には獄中で必要なものを聞いて、差し入れたりもしました。衣類や本とか、必用な資料のコピーとか。 難しいことを言われても私にはわかりませんから、そういうのは娘に任せましたけど。

面会には週に2、3回のペースで行っていました。死刑が確定してしまうと面会できませんから、それまでにしっかり会っておこうと思いまして……。

―何故、利明さんを養子に迎えたのですか。

利明は反日闘争をやった人です。私たちが戦後、何も反省せずに自分のことだけ考えている間に、若者たちはどれだけ悩んだか知れません。

そして悩んだ結果、何とかしなければと思いあの事件を起こしました。 私たちが日本国憲法を守る闘いをもっとしっかりやっていれば、あの事件は起きなかったのです。

利明たちをそんな状態にしておいた私たちが黙っていたのではいけない、何かできることはないかと考えたときに、アムネスティが以前よく使っていたadopt(養子縁組する)という言葉が頭の中に浮かんだのです。

また彼のご両親の大変さを考えると、少しでもその肩の荷を背負わせてもらおうとも思ったのです。

娘に相談したときには、すぐには「うん」と言いませんでしたけど、でも何とか承知してもらって養子縁組をしました。1983年くらいのことです。

―日本では死刑が確定すると、親族や弁護士を除いて誰とも面会や文通ができなくなります。このような死刑囚の処遇についてどう思われますか。

私も養子縁組をしたにもかかわらず、死刑が確定した後は利明とは一度も会っていません。最後に会ってから14年経っています。(注)

それでも面会を求めて毎月のように東京拘置所に足を運んでいます。拘置所へ行って、面会を申し込んで、断られてということをずっと繰り返しています。

でも利明は多くの皆さんが応援してくれてますから、まだいいんです。

死刑確定者の中には、親すら面会に行けない人がいっぱいいます。身内がみんな仕事を失って、苦しい状態に追い込まれていて、会いに行きたくても行けない場合が多いのです。

そんな死刑囚たちは、誰とも会うことなく、孤独のままで日々過ごしているのです。 親族以外の人とも面会できるようにしなければ、誰とも会う機会がないのです。

今の拘置所は、死刑囚の心を変えるには適切な場所とは言えません。逆にあの中では悪くなるばかりです。私でもきっとおかしくなってしまいます。

あんな狭い所で、年中監視されて、誰にも会えずに過ごすのですから。自分というものがなくなってしまいます。そんな状態の中では人間は変わりようがありません。 だから親族以外の人との面会や文通は絶対に必要です。

―益永さんが死刑廃止を訴えるとき、そこにはどんな想いがこめられているのですか。

日本に死刑制度があるということは、人を殺したら死刑になるということです。

でもそれなら、戦争に協力してきた私たち日本人は、みんな死刑にならなければいけません。死刑を存置している今の日本の考え方で行けば、日本人は一人も残らないはずです。私の頭の中ではそういう結論になります。

でも私たちは生きています。私たちは日本人を殺さずに生かしくれた世界の人々に、感謝しなければいけません。私たちを生かしてくれている社会のありがたさを知らなければいけません。

それなのに日本は、昔のことを忘れて、また死刑で人を殺している。そうじゃなくて人間を生かして欲しいのです。

戦争と死刑は私の中では繋がっているのです。戦争を通してさんざん人殺しに協力しておきながら、戦後しばらくの間、反省もせずに暮らしてきたわけですから。

戦争中は、私たち自身が死刑になっても当たり前なくらい、さんざん酷いことをやっているのです。それでも私たちは生きています。生きているからこそ、こうして生活もできるし、人と話もできる。だから当たり前のことを言わなければと思って死刑廃止の運動もやっているのです。

死刑の問題を考えるとき、私はまず初めに、自分が生かされているということを考えます。そして「だからみんなも生かして」って思うのです。そして「殺さないで」、「戦争しないで」って繋がってくるのです。

(2002年3月9日 アムネスティ東京事務所にてインタビュー)

注:
インタビューの時点では、法務省は益永スミコさんと利明さんの面会を認めていませんでしたが、その後対応が変わり、4月に入り益永スミコさんは14年ぶりに利明さんと面会できました。

 

【益永 スミコ(ますなが・すみこ)さんのプロフィール】

1923年、大分県生まれ。県立病院産婆看護婦養成所を卒業し助産婦に。1971年に愛知県の病院で労働組合を結成。1974年に退職した後、さまざまな市民運動に参加。
1983年には、連続企業爆破事件で死刑判決を受けた益永(旧姓、片岡)利明を養子に迎える。

連続企業爆破事件:
東アジア反日武装戦線が日本企業のアジアへの経済侵略に抗議して、71年から75年にかけて起こした一連の爆破事件。特に1974年8月30日の爆破事件では、8人が死亡し385人が重軽傷を負った。

三浦光世さん(歌人、随筆家)

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